2008/02/25

今、再びの『大和』へ

今、再びの『大和』へ・・・
   
(JR東海のコマーシャルではありません m(_ _)m)

ブログを読んでくださっている皆様、いつもありがとうございます。ご無沙汰をしておりました。m(_ _)m 家族や近親者に体調不良が続いてバタバタとしておりましたら、あっという間に2週間も経ってしまいました。この間、励ましや気遣いのメールを下さったり、また、気にかけてくださっていた親愛なる皆様、ありがとうございました。やっと時間も取れて、復活しました~。(*^_^*)

・・・(と、ここまでは前書きで)、ブログの本題に入ります。バタバタと過ごしてはいたものの、この2週間 それなりに人に会ったり、電話やメールで友人達から素敵な情報を頂いておりました。その中で印象に残った話題のひとつが、『新しい経済』についてのお話。(明日、著書を頂くことになっていますのでまだ詳しくは理解していないのですが、聞いたお話では概略はこんな感じです。人づてに聞いたお話ですので、本を読んでポイントが違っていたら後日訂正しま~す。) 

それは、今までの経済は競争論理の上に成り立っていたけれども、もうそれでは行き詰ってしまって、これからは『思いやりをベースにした経済』に変わっていく、というもの。例えば、同じ会社の中でも、仕事を手渡す相手のことを考えて、如何に受け取った相手がやり易いように、相手のことを思いやって仕事をするかに重点を置いている。すると、全体の効率がとっても上がるのだそうです。『相手への思いやり』というものを中心に据えて仕事をするという、新しいやり方のお話です。熱っぽく語る知人のその話を聞いているうちに、『共生』という言葉が浮かびました。『競争』とか『効率』が最初に来るのではなくて、『思いやり』First の考え方で経済が成り立つなんて、素敵だなぁ~と思いました。

仕事だけでなく 物(物質)でもそうですが、それを『ただの物』だと思えば、それは『物』でしかないけれど、そこに『思いやり』というエネルギーを込めてあげると、それはもう『ただの物』以上の物になる! 『思いやり』というのは『利他』または『愛』と言い換えてもいいのかもしれませんが、経済の世界でそれがまわっていくようになったら、優しい社会になりますねぇ~。(私は、それを理想論のように聞いていましたが、それが可能だという試算をされた学者さんが既にいらっしゃるのだそうです。)

そして、もうひとつ、友人から素敵な情報を頂きました。それは、『自然』をベースにした農法についてのお話。自然の法則というのを理解し、それを妨げるような作業は一切せずにお野菜を育てるというもの。農薬を使わないということは勿論ですが、ポイントは 「自然の法則を理解して、それを邪魔をするようなことは一切しない」ということ。作物とそれに必要な自然環境の『調和』がしっかりと取れていれば、それを妨げるような余計な作業をしない限り、そんなに手間をかけなくても美味しい作物が立派に育つ、というお話でした。家庭菜園をやっている友人たちから、「農薬を使わないとどうしても虫が・・・」という苦労話を聞いていたものですから、そして私の先入観もあって、「作物が環境と完璧に調和をしていると、『虫も付かない』」というお話にビックリしました。余計なことをしなくなった分だけ、時間も余るようになるそうで・・・、自然と調和した農法に戻すと、大変になるのではなく、とってもシンプルになる、ということでした。こちらのお話からは、人間が調和を崩すようなことをしなければ、自然はいつもすべて与えてくれている!ということと、『循環』を感じました。

そんな話が続いて、ふっと思ったのです。どちらも、もともとの日本にはあったものではないか、と。日本には、素晴らしい『調和』と『共生』に基づく精神が脈打っていて、それを祖父母の時代までは「当たり前」のこととして行っていたように思います。連綿と伝えられてきたものが、私たちのDNAの中でずっと息づいている。すっかり近代化して「知識」で頭でっかちになってしまった私たちにとって、そういう感性はちょっとさび付いてしまった感があるけれど、でも、それは眠ってしまっただけで消えてしまったわけではないのだろうな、って。

最近やっと、「日本」って素晴らしいなぁと再認識することが多くなりました。ここ10年ほど神社さんに伺ってはメッセージを頂いて来ましたが、その中で何度も何度も 事ある事に伝えられて来た事があります。(でも私はそれをそんなに重大なこととは認識していなかったのだけれど、ずっと心に引っ掛かっていたら、最近やっとその重要性に気がつき始めました。) それは、『大和』についてのお話。これからの世界に大和の存在が如何に大切かということ。(メッセージでは、日本とはおっしゃらずに、大和とおっしゃいます。--今の日本のあり方ではなく、もともと日本が持っていた精神や文化(価値観)のことを言っておられるのだと思います。) 大本教などでも、「日本は世界の雛型」と解かれていますが、日本人が元々持っている意識構造がこれからとても大切になる、と。

大和とは、『大きな和。大調和のこと』。対立を生むのではなく、自然も人間同士も『和すること(共生)』の大切さを伝えている文化です。それが、二千年以上も子々孫々 連綿と伝えられている。それはとっても古いものだけれど、それが今また とっても新しい! 最近、いろんな気づきを得て、やっと大和の文化を再認識しました。そして、ムーの流れを汲む大和(ヤムート)の本来の姿へ戻る、ということの意味も・・・。

時おり、メッセージを「大和言葉」で頂くことがありますが(そんなときは、学生時代 古典が大の苦手だった私は、頭がくちゃくちゃになってます)、言葉はみな「ひらがな」で戴きます。「うむ」という言葉ひとつをとっても、「生み・産み・海・膿み・倦み」と漢字を並べられながら、ひとつの言葉に同じ音霊を持つ複数の意味を込められます。このときは、生み=誕生、産み=生産する・海=母なる生命の源・・・、について話され、そのエネルギーが蓋をされて出口を失うと膿んでしまい、気分が倦む(倦怠の倦という字で 鬱鬱とした気分になるという意味。漢字は、人の体が貝のように丸まってギュッと縮こまっている状態を現している)・・・、という流れで,、それが今の人間の姿であり地球の姿であるというお話を伺いました。それを「うむ」という2文字に込めて一度に表現してしまう。

言葉ひとつ取っても、大和の言葉というのは多次元的な視野を持っていますね。それと、共生(ワンネス)の世界観も・・・。再認識しました。

(このブログを書いているとき、終始 JR東海のコマーシャルソングが頭の中を流れていました~♪)

| | コメント (6)

2008/02/12

見守る愛、そして 眼差しの癒し

見返りを求めず ただ見守るだけ・・・(の、実践)

一貫して教えられ続けている言葉がある。それは、『大いなる愛』という言葉。大いなる愛とは、無償の愛(ただ与えるだけの愛)・慈愛・あるがままを受け入れる愛・存在の愛・見返りを求めずに見守る愛  etc.・・・のことです。人間的な愛というより、宇宙的な愛のお話です。

私は、私の中の自我をそぎ落とされるまで(←まだそぎ落とされてませ~ん)、「見返りを求めないこと」・「相手のあるがままを受け入れること」などの学びを体験してきました。これは、殆どの人が体験していることだと思います。特に、子供さんのいらっしゃる方などは。(←父性と母性に分けたら、お母さんはその象徴ですね。)  そして、言葉や行為など顕在意識の領域を介しては相手に上手く伝わらないときは、「相手の肉体意識ではなく、相手の魂に語り掛けなさい」、と逐一、その実践が必要なときに具体的にメッセージでアドバイスを頂いてきました。

私が、『無償の愛』を実践できるように との親心なのだと思います。本当にそれまでは、それが必要な場面に出会わしたとき、良かれと思ってのこととはいえ、自分の価値観を押しつけて 相手をコントロールしたくなる気持ちとの戦いでした。

『愛』や『慈しみの心』を、人間をやっている中で自我を超えて実践するのって、ある意味 自分への挑戦だと思います。まさに 『学び』です。でも、

これが今、『地上で復活されるべき 最も大切なことの一つだ』、と光の存在は力説なさいます。(←私も そうだと思いま~す。)

人はいろんな価値観やタイプがあるので、こちらの思いがそのままストレートには伝わらないことが多々あって、相手にエールを送ったつもりの言葉や行動が、相手にはうがって受け取られてしまったり・・・と、時には そんなシチュエーションもあったりします。私は、相手から強烈なパンチを喰らい、かなりノックアウトされそうになりました。(-_-;)  

そんな折、相手に言葉で通じないときは 『眼差しの愛』を実践してご覧なさい、とのアドバイスを貰いました。眼差しの愛とは、言葉で伝えず じっと愛の眼差しで見つめる愛のことです。相手の眼を見た時に、こちらが微笑み、微笑みの中から相手に愛のエネルギーをお渡しする。鎧で固めた人の心の中には真意は伝わりませんが、眼は特別で、魂と繋がっているので、眼から相手の中に入っていくことが出来る。それが『眼差しの愛』だ、と。宇宙に充分にある慈愛を、眼差しを通して渡しなさい、と。(←例え、悪意があってこちらに近寄ってきた相手であっても、射抜くような眼差しを向けるのではなくて、慈愛の眼で見つめることで、あちらが勝手に「見抜かれている」と感じて、恐れて離れていくそうです。本当かなぁ~。でも、やってみる価値はあるかも。(^v^))

それと、もうひとつ実践することを勧められたのは、相手の魂に「あなたを愛していますよ」と言葉掛けをしなさい、ということ。これが結構 効くのです。相手の心が柔らかかくなって、素直に心を開いてくれるようになりました。まるで凍土から柔らかい黒土が顔を出すように、恐れで頑なになっていたその方の心に風穴が空いた、っていう感じです。(←もし  相手のことが嫌いで、「愛してます」なんて口が割けても言えなそうな場合は、相手が赤ちゃんの時の無垢な姿を想像してください。) 

それ以降、私は、朝 太陽の光を浴びながら

1.相手の魂に「あなたを愛しています。あなたの存在を慈しんでいます」と言葉掛けをすることと、
2.相手に会ったときは眼差しを通して『愛(慈しむ気持ち)』を伝える実践をしています。

それにしても、一人の時間に相手の魂に向かって、「あなたを愛しています。あなたを慈しんでいます。あなたの存在を、とても大切に思っています」と心を通して伝えている時は、私自身がとっても無償の気持ちになれます。そんなときは、相手の為に実践しているというより、むしろ自分の成長の為にこんな環境が与えられているんじゃないかと思えてきます。

もし、上手く分かり合えない、そういう方が身近にいらしたら、よかったら『お試し』にやってみてください。言葉に出すと上手く伝わらない相手でも、こんな方法でも実践してみたら、相手の決まりきった態度や反応が、ちょっとずつ心の氷が解けるように変わってくるかもしれませんよ~。♪ 

そのときに2~3日実践したあとで、「まだ相手が変わらな~い」と嘆かないで下さいね。最初の頃 私はそう嘆いて、「それは無償の愛ではありませんよ」と、痛~いご指摘を受けました。(←これじゃ、バリバリ見返り期待し~の愛だ! ) はぁ~、おっしゃる通り。(ー_ー) !!

| | コメント (4)

2008/02/11

天と地をつなぐ

天と地をつなぐ・・・、天地の橋を掛ける・・・

自分を知るためにもブログを書くとよい、と教えてくれた人がいる。本当にそう思う。私がブログを書き始めたきっかけは、今までずっと精神世界に惹かれてきたけれども、自分のもっているものがとっても抽象的で、形に『なりそうでならない』・・・、そんな落胆したような気持ちに陥っていたから。そう、私は8年近くかけて頂き続けて来た膨大な自分に関するメッセージを、それがどれも抽象的な話であるが故に どう解釈し実践してよいか分からずに、途方にくれていたのです。現実界への表現が分からない。そもそも表現するものではなくて、「私自身が意識を開いて、それでそのままの状態で生きればよい(そのように在ればよい)」、という類のお話だったのかもしれませんが・・・、なんとなく自分を解放できずにフラストレーションを溜めていたのです。

メッセージは一貫性があるけれど、どれも私には抽象的で現実の生活に即したものではなくて、いわばそれは 「集合意識を変える一助となりなさい」というようなレベルの話だと思う。だから、何かをするという具体的なレベルの話ではない。(←瞑想さえ、やりなさいといわれたわけではなくて、自分が楽になりたくてやっていただけ。) それはただ、「魂を(天岩戸を・心の扉をすべて)開いた意識となって、宇宙と繋がって、ただ黙ってそこに在れば良い」というようなお話。それを私は顕在意識で聞くので、パニくる。

でも、思い返せば、瞑想をしてもすぐに、天の川や神話の世界などのぶっ飛んだ世界に行ってしまう私は、そこで物語のストーリーを新たに書き換えたりなんてしている。以前に心理学の本で 「神話は集合無意識の世界を扱っている」という記事を読んだことがあるけれど、そういうことなのだろうか。今でも時々やるけれど、3年くらい前が一番頻繁に神話の世界に行っていたように思う。(←行こうと思っていくわけではないので、内側が連れて行ってくれなければ行けないのです。) おもしろいもので、瞑想の翌日から一週間後位に、CMでその神話(や童話)をパロディーにしたシーンがテレビに出たりする。タイミングが絶妙。七夕(織姫・彦星)や竜宮乙姫、鶴の恩返しなど幾つかの神話を瞑想で扱ったけれど、その直後に同じ物語がテレビに流れるので、すごくシンクロを感じたのを覚えています。意識って本当に繋がっているのですね。

さてさて、それはそれで私にとっておもしろい体験なんだけれど、集合意識に近い話は私個人に直結することではないので、なんとなく 「これをしたから日々の生活が穏やかになった」とか「心がこんなに軽くなって、調和した」みたいな日々のことには直結しないのです。ストーリーを書き換えたりすることは、とっても喜びとワクワク感があって楽しいのだけれど(←内側の私がスラスラと新しいストーリーを描いていく)、でも、それだけでは何か物足りない。どこまで行っても私って抽象的!なのかなぁ~? (-_-;) 

さっき、過去のブログを見直していて思った! そして、閃めた! 結局私って、瞑想のことでも日常のつぶやきでも 『意識』のことばかり書いている、って。そして、私は何を望んでいるのかっていうと、光の世界と地上(人間世界)を『つなぐ』こと。自分がその世界に到達することは大切だし まずそれが大前提だけれども、それだけではなく、多くの人が光の世界に渡り易いように橋を掛けること。光の世界っていうのはアセンションした世界のことで、5次元とか楽園とかシャンバラとかムーやレムリア・アトランティスのあった次元とか いろんな言い方が出来るけれど、要はそこと地上を『繋ぐ』こと。意識を開いて、どちらの住人にもなること。真我と自我を一体にして生きること。(←つまり、多次元になることだっ!) そして、一人でも多くの人がそこの住人になれるように『橋を掛ける』こと。そこに私の願いがあるのだなぁと、改めて感じた。意識の片隅でその世界のことを覚えているので、希求する思いはきっと並々ならぬものがあるのでしょう。(←他人事のように書いていますが、ホントに。それにはまず、自分がしっかりと繋がらないとね。(^_-)-☆)

よくメッセージでは六芒星を使って説明を受けた。陽(天空)のエネルギーである▽と、陰(地球=大地)のエネルギーである△を重ねる話。これからは、その2つの(▽と△)が重なった次元で生きるようになる、というお話。『もはや天もなく地もない』という世界のお話。もう、天と地が別々に存在する世界は終わるのねぇ~。百匹目の猿の例え話とか、14万4千人が目覚めるという話を聞くけれど、目覚めるべく生まれてきた人たちが一人でも多く目覚めることで、天地の一体化はますます促進するのだろう。それにはブログって、それぞれの目覚めや気付きのために、本当にありがたいツールだぁ~。ヽ(^o^)丿

女性性を司る女神様のエネルギーに縁のある私は、陰陽のお話を頂く中で、男女について 「陰とは、・・・ これこれこういうもの」というお話をよく伺う。そして、地上が平和であるために・地球が調和するためにも、人間の基本である男女が調和することがまず大切だ、と。調和するためには、・・・(長いお話)・・・、と続く。このことについては、また改めて書きたいと思う。でも、本当に身近なところで、男女が和合していたらどんなにか地上に愛が溢れるだろう。そして、人のハートの中も愛で満たされるだろう。家族という単位で考えれば、親子や兄弟姉妹だってお互いを思いやって、例え自分と正反対のタイプで理解に苦しむことがあったとしても 尊重し合っていけたなら、それだけでどんなにかその家の波動が和らぐことだろう。

結局、私にとっての足元も、まず家族・友人など近しい人からということになるだろうか。まぁ近しい人とは、喧嘩しても感情が爆発しても 最後には明るく「ごめんね」って言える関係でいたいものですし、理想を言えば、ちょっと理解が難しくなったときには 認め合えたり尊重できる関係でいたいですけどね~。♪

| | コメント (2)

多次元って? アセンションって?

スピリチュアル関連で、必ずっていうほど耳にする言葉・・・

瞑想をしているせいか、私はときどき、ここ(現実界)にも、別の場所にも同時に居る自分を感じることがあります。ひとつにはここに居る自分(3次元の自分)、そして同時に別の場所にも自分の存在を感じる。そちらは、時間も空間も一気に飛び越えるので、どえれぇ~所にいる自分を発見します。そう、そんなにご近所や近い時間ではないんです。時間で言ったら歴史の教科書の初めの方、場所で言ったら宇宙空間が奇麗にみえたりすることもあります。でも、そこでも『私』はいきいきと今を生きているのです。不思議ですねぇ~。

以前に聖地で頂いたメッセージで、『空(くう)』についてのお話を思い出します。聖地は神社であっても、『空』のお話は観音様がくださったりします。(般若心経を思い出しますが、空のお話は観音様がお上手なのでしょうか?) 最近の私は観音様を『仏教の』仏様という風には考えなくなっています。それぞれの文化に降りられた女性性や母性・慈愛のエネルギーを持つ意識体を、日本人は観音様として意識して受けているのだ、と。実際に神社に参拝していても、観音様と同じエネルギーを持つ女神様が観音様と一体となってメッセージをくださることがあります。また逆に、「わたくしのエネルギーが仏の世界では観音として現われています」なんて教えられることもあります。そんな訳で私は、神様と仏様を分けて考える事は卒業しました(*^^)v。同じようなエネルギーを、神道・仏教それぞれがそれを表す神仏をお持ちでいらっしゃるということなのでしょう。本地垂迹とかいう考え方もありますしね。私には難しいけれど・・・(^_^;)。 (☆彡 そんな訳で、観音様の他にも市杵島比売様やハトホル女神・サラスバティ(弁天様)・チベットのカーラなどとご縁が繋がる意味が分かってきました。)

私は、料理も裁縫も決して上手いとは言えない かなりの家事音痴で、四角いところもまぁるく掃く天才で「大雑把」な性格ですが、なので現実的には「女性らしいことはと~っても苦手」なのですが、女性性(母性や慈愛・柔らかさ・陰陽のペアで言ったら陰)のエネルギーを持っていると言われ続けました。(←最初に言われたときは自覚がなかったので、私が思い出すまで辛抱強く?言われ続けました。) 最初は「ありえな~い」ようなことでしたが、私が惹かれることや意識が向くこと(関心が行くこと)など事細かに「あなたはこうでしょ」とメッセージで教えられ、やっとこさ、ピンと来る体験に出会ったのです。遠い遠い過去のことです。私はこの役目を引き受けた、と。まぁ、こういう役割は『私』という個が一人で受けている役目というよりも、女性性(母性)を体現するソウルグループに私の魂が属しているということなのでしょうけれどね。

そんな訳で、女性性に関するメッセージは多く頂くのですが、それとは別に、観音様が話してくださる時に限っては、『空(くう)』のお話が良く出て来ます。これが、頭で解釈しようとすると超~難しい! 簡単に言うと、っていうか原文が簡単なのですが、シンプルなメッセージほど理解が難しい。

・・・ あなたの中に私はいます。そして、私の中にあなたはおります。あなたは私であり、私はあなたです。すべては空です。
ここに居て、ここに居ないもの。あって、ないもの。見えていて、見えていないもの。すべては空なのです。あなたはあなたであり、すべてです。すべては空です。全てが空。一切が『無』。 ・・・

・・・、っていうようなお話。これがね、最初に聞いたときは脳みそが腸ねん転起こしそうな感じだったんだけれど、それでその意味は今の私には分からないや~と思って保留にしていたのだけれど、気がついたらいつの間にか、「あ、こういう感覚かな?」って時々感じられるようになって来た。そして『空』っていうのが、多次元に居るということじゃないかなぁとおぼろげながら分かってきた。

『高次元の私』というのは『意識の眼』のようなもので、3次元の私のように体重もないし、要するに物体が無いから、時空を超えたどこへでも瞬時に居ることが出来る。ちょうど、私が『眼』だけで存在しているような感覚。実際にはそれは眼ではなくて、意識なのでしょうけれど、私には「眼だけになって見ている」、という感覚です。。意識のスイッチを切り替えるだけで、現実の私とは別の場所に居る私を意識する瞬間がある。(本当にときどきだけれど。)

スピ系の本で、平行現実とか多次元とかいう言葉をよく目にするけれど、こういう体験をすると、私というのも ここにいる私とは別に、いくつもの『私』がいるのだなぁと思う。そして、そんな体験をすればするほど、私はそれぞれの私を ひとつに内包するようにしながら 『大元に』帰っているような気がする。そして、『私』はより大きくなっていく~、って感じです(←太っていく~ではないですよ、念のため (^^ゞ)。それは、『私』と一体になるということでもあるけれど、宇宙と自分が一体になるって言う感覚にも似ているかもしれません。とにかく、自分という領域(どっからどこまでが自分という感覚)が大きくなっていく~。その幾つもの自分を『時と場合に応じて』(必要に応じて?)、私が自覚しているような、そんな感じ。それが、今の私にとっての多次元に居る感覚で~す。

多次元ともうひとつ、私にとってスピ系の世界で印象に残る言葉、『アセンション』。私も最初の頃はこの言葉の響きに惹かれて奥が深そうだなぁと思っていたけれど、最近はこんな風に考えている。一言で言っていいものか分からないけれど、言っちゃうと、私たちが人間をやる時に次元降下して肉体に入ったことのプロセスを反対に歩むように、つまり、意識を開いて・魂を開いて、本当の自己と繋がって生きることじゃないかと。そういう世界を宗教では天国や楽園と言って、死ななければ行けない世界のように描いているけれども、本当は生きたままでも、『本当の自分』と繋がるだけで、楽園の住人になれるっていうことなんだと思う。(私が瞑想をするのも、そこに帰りた~い、そして、そこと地上を繋ぎたい~っていう望みがあるからなんだと思うんだっ。)

大和の神様はそのプロセスを一言で『元帰り』と仰ったけれども、元々そこから来た私たちだからこそ、帰る場所を知っているのでしょうね。

地上にいる私たちは、それぞれ個性や役割(大きく言うと使命)を持っているけれども、カルマを浄化して軽くなったら、今度はそれぞれがジグゾーパズルの1ピースのように 自分の役割・個性を一生懸命に そして楽しんで生きることで、結果的に一人ひとりが1断片となって作られているジグゾーパズルの完成図が、それがそのまま『楽園』の風景になっているような気がします。(*^_^*) 人間としては個を堪能して、意識は全体図が見えている・・・、みたいな感じになれたら素敵です。まぁ、究極の目標ですけどね・・・ (^_^;)。

| | コメント (4)

2008/02/07

シャンバラへの思い

母性を取り戻しましょう・・・

最近また、『シャンバラ』というキーワードが意識に上がって来ます。最初にシャンバラを意識したのは2年前の瞑想中でのこと。友人と二人で瞑想をしていると、その時は最初から漆黒(濃い藍色)の宇宙がビジョンに出てきました。胸の奥に宇宙そのものを内包している感じです。胸の中に宇宙・銀河がある!(身体の内側と宇宙が一体になっている~。) 本当に私たちの肉体の細胞は隙間だらけで、細胞のひとつひとつは宇宙の星々ほど離れているではないかと思えた程でした。

深い藍色の宇宙は至高の根源に近いところと言われますが、人は胸の中に無限大の宇宙を内包していることを知りました。魂を開けばみんなここに帰る、というか、私たちは最初からここ(宇宙)と一緒だったと知ることが出来るんですね、天岩戸が開きさえすれば。

話が少しずれてしまいました。m(_ _)m 今日はシャンバラのお話でした。2年前のその瞑想の(宇宙で銀河を見た)後、瞑想中に地中の洞窟に何度か行き、洞窟に沿った川と、その奥に湖を見つけました。(そこはまだシャンバラの手前で、シャンバラそのものにいけた訳ではないのですが・・・。)

それから少しして、ある水辺の聖地へ伺った際に、そのビジョン(地中の湖)とリンクしたメッセージを頂きました。

「あなた方が今日ここに来たのは、もっと深い目的があります(聖地を参拝したくて伺ったのですが、それだけではなかったのですね。)。あなた方の内に水を探しなさい。今日、水辺を歩くことによって、内なる水と感応する場所に辿り着くと、岩戸が開きシャンバラに行きます。あなた方はシャンバラを見つけなさい。それが今日分かるのか、1年後か、10年後かわかりませんが、それはあなた方次第です。

この世を、娑婆(シャバ)からシャンバラへと変えて行きなさい。」・・・というメッセージ。

それから、また暫くして(2007年10月)、再びシャンバラに関するメッセージを頂きました。瞑想中のビジョンでは、せり立った大きな岩盤と川(滝?)が流れている風景から地中に入ったときのことです。(→このメッセージは一緒に瞑想していた友人が取ったものを教えて頂いたものです。前半の一部は割愛させて頂いています。m(_ _)m)

「シャンバラは、ヒマラヤの奥深く、氷の下にあります。シャンバラは以前から見せていた。意識でそこから入っていける。日本からは、意識として入っていける(←地上のビジョンとしては、高千穂や耶馬溪に似ているところ。)温暖化で危なくなる前に、あなた方にこの楽園の住人になって戴き、この地上と交流できるようになってほしい。

この世に母性が再生できるように、ただ祈ればよい。 ・・・

シャンバラを特定する時期に来ている。母性が不足している今、シャンバラは母性そのもの。母性は大地で、父性は天空 (どちらも宇宙愛)。天空から降ろしたエネルギーで、大地で産む。いろんなものに閉ざされて、膿みなっている。(←『産み』ではなく『膿み』。) 大地に蓋をしたから、母性がだめになった。欲の塊で、膿んでいる(化膿する)。

この地上に母性が再生するように祈りなさい。」 ・・・というもの。

自然と人間が切り離されている今こそ、陰陽和合すべく母性の再生を祈って生きたいものです。☆☆ 合掌 ♪♪

| | コメント (2)

2008/02/05

今は昔

姿・形は違えども、同じことをやっている・・・

1994年秋にヒプノセラピーを受けた。そのときは、ヒプノの何たるかも知らない時で、ただ、前夜 『本屋に行くことで象徴的な出来事が起きる』という夢を見たので、仕事帰りに書店に寄ってみたら、スッと手にした本がヒプノの紹介記事が載っている雑誌だった。そして、その記事を読んですぐにセラピストに電話をして・・・という流れで、あっという間にセラピーの段取りが整ってしまった。

最初に「何の目的でこられましたか?」と聞かれた。本当のことをいうと雑誌に載っていたヒプノ体験者のインタビュー内容と 現実に置かれている私の状況が酷似していたものだから、そこに私を開く何かがあるんじゃないかなと思って、というのが冷静に考えれた時の答えだけれど、そんなことを考えるまもなく「気がついたら電話していた」というのが本当のところだった。それに、転職を考えていた私は何か方向性が見つかるかもしれないというほのかな望みもあったことも事実だけれど、ヒプノの何たるかもしらないで受けた私は驚いた。「私が喋ってる~」。それも、「私の知らないこと、遠い昔のこと、生まれる前のことを~」。

セラピストは、「あなたが喋りたくないこと、思い出す必要がないと思っているものは喋らないから、私が無理にあなたのプライバシーを聴きだすようなことはないし、何を喋るかはあなたが全てコントロールしているので安心してください」と言っていたけれど、私の知らないことをセラピストの質問に導かれるようにスラスラと喋っている私がいて、その一連のストーリーを現実の私は「へぇ~、そうなの?」というスタンスで少々距離を置いて聞いている。まるで別人みたいに、二人の私がうまく並立している。

その中で言った衝撃的な一言。「もう、私は社会の枠の中で生きるのをやめます。社会に自分を合わせて生きるのをやめます。」 それを聞いていたもう一人の(現実面の)私は、「え~、すごい事 言ってる。私、どうなっちゃうの?」ってビックリ。でも、そこで見せられたビジョン・聞かされたことは(←もう一人の私が主体なので 「見たビジョン・話したこと」、とも言えますが)、魂が転生している中で私が体験したこと--過去世で強く思ったことや実際に起きたこと--で、今生で絶対に解消しよう!と決めてきたこと。 ・・・ その日から私の日常は変わってしまった。

セラピーの中で私は 「今の私は他の人とは時間軸が違う。違う時間軸を生きている」と言っていたけれど、それからは現実+それともう一つ違う時間軸を同時に生きていたように思う。普通の日常を送りながらも、意識の内側では過去世を解消するためのトラウマの解消や 挫折を成就の体験に変えるための追体験などを重ねる日々。ちょうど日常の時間の『澱(おり)』に、内なる世界の現象が展開されていた、といえば適切だろうか。日々の現実は というと、そんなことで、さぞやおろそかになっていたのでした。( ^_^; )

それから13年、いろ~んなことがあって、そして今はすっかり『過去を書き換える』ことが成って(←思いの書き換え・解放) 落ち着くことが出来たけれど、聖地を巡る中で数々のメッセージを頂いた。その中で印象に残っている言葉がこれ。

『人間は今を生きていますが、「今は昔」。姿・形は違うけれど、そして立場も違うけれど、すっかり同じことをやっています。』

この言葉を思い出したのには理由があって、昨日 鬱傾向にある人とお話をしたため。ずっと話を聞いていると、その方は 今生で手放そうと(解消しようと)思っていることの『学び』が始まっていた。本人はスピリチュアルな事に感心のある方ではないので、現実の自分の思考や価値観が正しいと思っている。とても常識的で努力家でもある人なので、世間的に言ったら彼女の言い分は正しい。けれども、そこに彼女の学びがあった。手放し、ゆるし、受け入れなければならないものが・・・。

過去世の彼女は、「子供を命に代えても守る」という強い意志で育てた武家の妻。男の子たちを武士としても立派に育てた。けれども、彼らは戦場で『立派な』最期を遂げてしまった。しっかりと育てたのに、子供を・家の世継ぎを守れなかった・・・。これが彼女の強い後悔の念。そして、現世。二人の男の子を成人させ、これから夫婦二人のゆったりとした時間が来ると思っていた矢先、次々と子供たちが『鬱』のような状況に落ち入ってしまった。(彼らには職場で彼らなりの理由があってそうなっていた。) 彼女は、病んだ息子を見て、自分の育て方に問題があったのでは、と自分を悔いて、また心の中で自分を裁いていた。そんな思いが募って、彼女自身も更年期障害とも鬱ともつかない状態に陥ってしまった。

ちょうど私の友人に、ハイヤーセルフやインナーチャイルドのメッセージを取ってくれる人がいて、彼女の内側を紐解くにつれ、『魂が持ち越してきたテーマ・今生のテーマ』が見えて来た。ひとつひとつ 今の彼女と過去世の彼女の出来事がダブって映り、今の目の前の問題(と思えること)は、過去世から傾向として持っていることで、「それを解消するために、魂が望んで引き起こした現象」だと気づいて来た。

今年に入り、私の友人の中で鬱的症状をきっかけに心の内側と向き合うようになった方は彼女で3人目。今、鬱は日本中に蔓延しているけれど、単にストレス社会というだけでなく、『心を開きなさい・魂を開きなさい』というメッセージとして引き起こされている方も多いような・・・、そんなことを感じている昨今です。

誰でも、今の自分の状況を見回すと、結構 過去から持ち越しているものがたくさんあったりする。手放すもの(解消すべきもの)があるとすれば、日常を見ることでも気付きのヒントは散りばめられているように思う。それは、自分に近すぎて気付きにくいこともあるけれど、過去がそっくり今の意識に引き継がれている。

『姿・形は違えども、今は昔』、です。

| | コメント (9)

2008/01/30

人の思いは星の煌めきに似て

人が何かを思うって、まるで星が煌めいているみたい・・・

パソコンというのは便利なもので、その中でもブログは 人それぞれの思いを声も発せずに多くの人に発信しています。家に居て、思いを綴るだけで多くの方に届きます。(←すごい時代になりましたね、お会いしたこともない多くの方々とも意識の交流が出来るのですから~。ヽ(^o^)丿・・・) 

今朝、スピリチュアル系のいろいろな方のブログを見ていて感じたこと。それは、人が何かを発信しているって、まるで星が煌めいているみたいだな、とうこと。 それぞれの方が自身の思いを書き綴るのを見ていると、一人ひとりが光となって 『私はここにいます』 と煌めいているような錯覚に捉われました。きれいだなぁ~、と。それぞれが独創的で創造的な光となって、Web上でたくさん瞬いています。

そんなことを感じていると、誰にも気づかれないかもしれないけれど、人ひとりの思いが変わるってすごいことなんだな、ということを実感しました。たった一人であっても、その一人の意識が変わるって、きっと宇宙で星が一つ誕生したり終焉を迎えたりするほどのものなのだろう、って。 
もしかしたら、宇宙から見ると、地上で輝く私たちの煌めきも、私たちが見る宇宙の姿と同じように光の集まりとして、まるで鏡のように見えるのかもしれない・・・、なぁんて想像してしまいました。

人を光らせているのはその人の外側ではなくて、瞬間 瞬間の(または積み重ねてきた)『思い』なのだろう。何を思うか ―― ネガティブかポジティブか。一体感(共感)か、分離感(比較・競争)か。つまるところ、愛か恐れか。愛が大きければ大きいほど、また、その人らしくあればあるほど、光もまた強さを増すのだろうし、何を思うかで発する光の色も大きさも違う。もし、一人の意識に『開き』が起きれば、それはもう、光に換算するとすごいことなのだろうなぁ。

・・・、なぁ~んて、今朝の私は 『人の思いを 光として感じる』ことをしていました。人それぞれにいろんな思いや嗜好があるけれど、それぞれが大いなる光の一つの断片として光ることで、私たちをお互いに触発したり気付き合ったりさせながら、全体として地上の光を大きくしている。

光にはいろんな色や大きさがあるように、それぞれが個性に彩られた様々な光の集団、それが私たち。それはまるで、宇宙に煌めく星々のようです。

ネガティブな意識を強く持って、それがベールとなって自らの光を隠してしまうこともあるけれど(←これって 暗黒星雲みたい)、そして長い時間 私たちは本性をベールに包んで隠してきたことも事実だけれど、今は光を取り戻して、『私』という ありのまま(←素)を発信している人が増えている。\(~o~)/  思いの発露を綴ることで、自分の光を発している。 

私たちがこの光に貫かれて、もっともっと自己を取り戻し 同時に他者の光をも もっと尊重できるようになると、多様性と柔軟性に富んだこの世界は、光のコラボレーションが冴えて ますます美しくなりますね。\(~o~)/

いつの日か、この世界が、光の糸で織った綺麗な綾織の布(Web)として仕上がりますように。(*^。^*) 

・・・そんな想像に駆られた 朝のブログサーフィン(ブログのネットサーフィン)タイムでした。

| | コメント (2)

2008/01/27

潜在・顕在・超意識、そして自我と真我について

意識についてレクチャーをして頂きました・・・

ネットサーフィンをしていたら、「集合意識は超意識である」と書いてあるページが目に止まり、ちょっと私の認識とは違っていたので頭がこんがらがってしまったところ、分かり易いメッセージを頂きました。(~o~)
ちょっと硬いお話ですが、意識の構造について、です。

心理学でも、○○心理学などカテゴリーが違うと用語の意味や定義も少しずつ違うようですので、これは一つの分類として、ご参考まで。(*^_^*)  以下、メッセージです。

一番上に顕在意識(自分で認識・自覚出来る意識)、その下に潜在意識(カルマ・思い込み・観念など、普段は認識できない意識)がある。⇒ これらは人間の自我の領域。心というのは、真我の手前までで、顕在と潜在意識の領域のことを言います。

潜在意識の中の一番奥(真我に近い部分)に『人間の』集合意識があります。集合意識というものを、人間の集合意識ではなく「宇宙のどの意識体も持っている思考」というように定義すれば、それは宇宙意識のことを差すので、超意識体(宇宙)の領域にあり、『すべてはひとつ』という意識を意味します。

注:私はこの部分でこんがらがったのでした。集合意識という言葉を、人間の集合意識として解釈していたので、「宇宙の意識体が持つ集合意識」という意味で解釈することが出来ずに…。(^_^;)

そして、潜在意識の更に下層に超意識があり、それは真我とも魂とも言います。

正確に言えば、真我というのは『良い意味で人間の本当の姿』のこと。その真我の奥に魂があり、魂の尾っぽはそのまた奥にある大宇宙と繋がっている。これらの意識は、人間の意識を超えているので『超』意識という。

超意識とは、人間の奥の奥の意識のこと。外側から、真我・魂・超意識となる。真我~魂を通り抜けて超意識体に行く。魂の一部は超意識体(宇宙)と繋がっているので、魂は「神の分御霊」であると表現される。超意識全体を神殿に例えると、真我(=人間の本当の姿)は、拝殿の前の扉。魂(=超意識に繋がる自己)は、拝殿。超意識(=大宇宙・神の世界)は、本殿。・・・と、なります。

意識の構造をドーナツの絵に例えて説明すると、ドーナツの輪の外が顕在意識、ドーナツ自身(食べられるところ)が潜在意識で、見えないけれどもその中にたくさんの思いが詰まっている。そして、内側の穴にあたる部分が超意識。真我~魂の領域は『内なる宇宙』(=小宇宙)で、そのさらに奥にある超意識体は外宇宙と同じこと。ほら、ドーナツを上に向けて覗くと、中心の穴の向こうに空(外宇宙)が見えるでしょ。中心の空洞は、覗いてみれば外宇宙と一体なのです。

だから、宇宙に帰る近道は 外を見るのではなく内側に目を向けていくこと! 内側に向って神を見るほうが、どんなに効率が良いか。

…、というような説明でした。実際は図に書いて頂いたのですごく分かり易かったのだけれど、ブログに載せるに当たり文字に直してしまったので、分かりにくかったかな? 基本的な説明ですので、これを読んでくださる皆様は既にご存知のことだったかもしれませんが、私にはドーナツの図が感動的に分かり易かったので掲載してみました。ヽ(^o^)丿

これを書いていて思ったのですが、大事なことは、私たちがこれから向かうところは、天岩戸を開いて『真我と自我をひとつ』にするということですよね。神が最初に創った人間の姿(人間が自我を持つ前の姿)に『元帰り』するということですよね。

| | コメント (4)

2008/01/26

江ノ島様へ新年のご挨拶

江ノ島から見る対岸の景色は、まるで空から下界を眺めているようで・・・

今日は仕事が早く終わったので、友人を誘って江ノ島様に参拝に伺って参りました。平日の午後というのに、さすがに1月! 多くの方が参拝しておられました。

島の中にはたくさんの猫がいて、それぞれ気ままに・のどかに過ごしています。島の方々と参拝客(観光客)が共に猫を可愛がっているので、猫もとっても人になついています。
大きなカメラを持った男性が、猫のアップを取ろうとカメラを構えていましたが、猫ちゃんの方はおすましした顔を少し上げたままじっと動かず、「こんなものでどう?」と言っているようにポーズを取っていました。私は、道端で日向ぼっこをしている猫ちゃんに 「ニャ~」と猫語で挨拶をしましたら、彼(彼女?)は眠そうな眼をこちらに向け 「ニャ~」と挨拶を返してくれました。なぁんとほほえましい。(*^_^*)

そうでした、島を訪ねたのは、神様に新年のご挨拶をして お札を頂くため。古札をお納めして、新しいお札を頂いて参りました。たくさんお札があったのでどれを頂いて良いものか迷いましたが、社務所の方が親切に教えてくださいました。m(_ _)m これでまた一年、神棚にお祀りさせて頂きます。

最近、太陽の写真を掲載しているブログやHPを多く見かけますが、私も奥津宮の前で太陽を仰ぎましたら、木々の間からこぼれる太陽光は格別にきれいでした。そこで思わず携帯カメラを太陽に向けましたら、レンズの向こうに光りの珠がゆ~らゆら。肉眼では見えませんが、レンズを通すと太陽光から伸びる丸い珠が上下左右に揺れています。パチパチと連写をしてみました。3枚目は強烈に色が抜けていましたので、これは掲載しませんでしたが、まるでこと座のリング星雲のようでした。(←2/4注:当初 写真を掲載していましたが、こちらの事情で削除させて頂きました。m(_ _)m)   

奥津宮からの帰り道は 島の西側を通りますので、眼下の海の彼方に富士山・箱根・大山がくっきりと見えます。葛飾北斎も江ノ島や神奈川沖から見る富士山を『相州江ノ島』『神奈川沖浪裏』という作品で描いていますが、ここからの風景は圧巻です。それともう一つ、この道からは 海の向こうに弓なりに続く対岸の浜が見えますが、それを見ていると ちょうど空から下界を眺めているような錯覚に捉われます。まるで、ここが地上じゃないような・・・、そんな感覚。見えるものと言ったら、雪化粧をした富士山・真っ青な大海原・松並木が延々と続く対岸の浜・・・、まるで絵に書いたような世界。昔は江ノ島を「絵の島」とも言ったそうですが、江ノ島の天女さんも この風景に引かれて降りて来られたのでしょうかね。私だったら「この島に降りる!」って思っちゃう。(^o^)/

江ノ島は、トンビがたくさん舞っている島です。いつも不思議に思うのですが、神様の話をしていると、空高く舞っているトンビがサァーっと急降下して近づいてきます。あまりの大きさに、思わずキャーっと叫んでしまったこともありましたが、いつもタイミングよくやってきてくれるので、神様のお使いではないかしらと思っています。

・・・、という訳で、今日は快晴の中  三女神様への参拝が出来ました。世界も日本も、一人ひとりの心の中も、「調和に満ちた年となりますように」と願ってきました。(*^_^*)

| | コメント (1)

2008/01/19

鬼門が 『貴門』に

鬼門だった東北が貴い門に・・・青森の友人と交流再会 ヽ(^o^)丿

私の友人関係は分布が分かり易い。神奈川に住んでいる私は、遠方の友人といえば何故か関西~九州に多い。一時は、友人の分布が東海道・山陽新幹線に沿っているような時があって、静岡・名古屋・京都・奈良(←ここだけ新幹線からちょっとはずれ)・大阪・兵庫・福岡・・・と一直線に並んでいた。たった一人、講演会で知り合った方が北関東に住んでいらしたのだけれど、北に知人が出来たことを喜んだのもつかの間、私と交流を始めてすぐに彼女は名古屋に引っ越されてしまった。そんな訳で、私の友人は東北方面に一人もいない・・・。正確には幼馴染みの友達が一人、青森に嫁いでいるのだけれど、仕事柄お忙しくて年賀状だけのお付き合いになっていた。

そんな彼女と20数年振りのお便り交換。でも、スルスルと交流再開とはいかず、彼女から頂いたお便りの返事を私はポストに出し忘れ、1ヶ月遅れのお返事を出した(←申し訳なくて反省m(__)m)。それからのち彼女も、私への返事が遅れ、前回のお便りから随分経ってから 「返事しなくてごめん。またよろしくね」と、はがきが届いた。これはまだ「これからまた、メールや手紙でお便りの交換をしようね」と確認しあっている内容で、いわば前振りである。

やはり私は、東北の友人と懇意になるには時間が掛かるらしい。それでも、ず~っと東北に縁のなかった私には、青森にご縁が出来たことがなんとも嬉しくてたまらないのです。ヽ(^o^)丿

思い起こせば昨年末、「鬼門はもう存在せず、それは『貴門』(←貴い門)になった」というメッセージを頂いたばかりである。もう、苦手な方角(鬼門)は存在しないオールマイティーの時代が来たのだろう。やっぱり、統合の時代ですね。

元々の私は、何も意識していないければ西や南のご縁が集まってくる。地域で言ったら西日本、スポットで言ったら南の方角という具合に。先ほど食品庫を見ていたら、ミネラルウォーターなど自然系の食品は、戴き物やお取り寄せなども含めて何故か鹿児島・沖縄の品物が集まっている。土地の波動が合うのだろうか? 私自身、南国と海は大好きなところなので(一度も訪れたことがないのが残念・・・) 戴く食品はウェルカムなのだけれど、これだけ集中すると何か不思議! 土地の縁ってあるのねぇ~。

| | コメント (4)

«環境も心機一転?